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風刺と表現の自由

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 イスラム教の預言者ムハンマドのターバンを時限爆弾に見立てた風刺画の話。書いたのはキリスト教徒ですよね。テロ批判としての風刺画ではあったのでしょうけれど。
 ニューヨークタイムズなどのアメリカの風刺を読むと、目の付け所に関心するばかり。時にはふーん、そう考えるのか、とあんまりピンとこないことも多いです。それより、川柳には笑えるものばかりなのは、日本人だからでしょうか?
 イスラム教は私にとっては、仏教や神道やキリスト教より遠い存在で、彼らの信心深さが支えている文化とは触れ合う機会がとても少ないです。ことわざとか、縁起が悪い、とか、言い伝えでなじんでいることって多いでしょう? でも、あんまり知らないわけです。
 昔の話ですが、「月」に対しての思いは、イスラム教徒は神聖なるものと見ているので、アポロ着陸には相当怒りを覚えたらしいと読んだ記憶があります。その当時の私には「へぇ~~」でしたが、今は違うんだなぁ。この「思いの差」が争いごとの種になったりするのですよ。
 先住民の文化に対しても同じようなことが言えるのでしょうね。
 親とか自分の尊敬する人を侮辱されれば、誰でもイヤな気持ちになり、度を越せば怒りを感じるはず。
 「表現の自由」は、もう少し慎重にあるべきなのだと感じました。言わなきゃわかんない、という西欧文化は、日本人の私としては、たまには「察してよね」、とも言いたくなります。
 どこかの「ジャーナリスト宣言」ではないですが、言葉には力があるし、もちろん風刺画も同じような力を持っています。
 相手を立ち直れないほどに傷つけることもできる言葉の暴力もあります。私も、しょっちゅう厭味を言って、嫌われていますが。私の場合、それだけでなく、まったく気づかずに単刀直入に言うことで(相手への配慮などまったく視野になく)何度か軽く傷つけてきたような‥‥。
 ところで、中国に進出したアメリカの検索サイトgoogleに対して、中国政府は不都合なことは検索からはずす、という取り決めをしたようです。中国側からすると国の統制のための「法」だそうです。これは表現の自由を奪ったひとつにはならないのでしょうか?
 日本ではジャーナリストは中立的な立場でしゃべろうとするせいか、先月は持ち上げ気味だった人を、今月には悪人扱いの口調、でまったく気ままです。(渦中のH氏とか)それも社会の事実を報道する「表現の自由」ではあるのですが、薄っぺらくないですか?
 今回の風刺画騒動に対して、報道されているのは、過激な氾濫場面の映像が多いようです。現物10枚の風刺画を私はまだ見ていません。イスラムとテロの関係です。イスラム教を良く知らない私たちが、今回の暴動の映像ばかりを見て、何を考えるでしょう? 
 私は個人的には今回の「風刺画」騒動は、一神教の価値観の「排除形」の傾向を強く感じてしまいます。
 ジャーナリスト宣言をしている人たち、ぜひ、頑張っていろんな観点から報道してください。どのTV局も同じような報道にならないことを期待して!
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by artemis-journal | 2006-02-17 20:46

やってみようじゃないですか!

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 最近鈍い。齢を重ね、まるくなってきた、とも言えるのですが。望んでそうなっているような、望まずそうなってしまったような。または、自分に自信がなくなったような‥‥。
 こう書いて行くと、落ち込み傾向に映るのですが、そういうわけでもありません。
 子どもの頃の私はのろまで「さっさとしなさい」と言われてきた記憶があります。で、急ぐとビーバーのようにちょこまかとしていて、ちっとも進んでない‥‥。
 未だに家族で出かける場面では、私は最後にバタバタとなって、忘れ物を取りにドアの鍵を開けない時はないほど。そんな具合ですから、みんなには「まだ~?」とあきれられます。
 でもでも、出かける前には洗濯干したいし、夜に帰ってからのことも考えちゃって、と言い訳タラタラ。
 そんな私ですからスローは大っ嫌い。「スローライフ」なんてもう、ほんとイヤです。あれは、さっさとできるヤツらが、私らのようなのろまのペースに合わせてくれるわけでもなく、まったく‥‥。とアホなことをほざいています。かといって、自分よりゆっくりのペースの人にはイライラするものです。同じようなペースで動ける人とは気楽ですよね。特に旅行とかは。
 この頃、両親のことで、お年寄りとのコミュニケーションにとても苦労しています。彼らは私よりももっともっとスロー。そして、彼らの安心は「今までどおり」。おおむね70歳ぐらいまでは、現役でやっておられる方も多いし、新しいことに関心も示してくださいますし、仕事の場面では、いろいろ教えて頂くことが多いものです。
 しかし、老化が進んでくると、他者の言うことが理解できにくくなってきて、「自分流解釈」となってしまうようです。若い人が入った複数人での速い会話にはついて行けていないな、ということを実感しました。「そうか、だから、『自分流解釈』なのだな」と納得。
 こちらは何度もくどくどと話しているのに、相手にはほとんど伝わっていないのです。高齢の方に納得していただくのは、並大抵のことではありません。話には一応納得しても、自分の気持ちには合致しないことが多いですから。
 ただし、これも大変な個人差があって、社会の中で揉まれながらやってきた方は、いつまでも上手に相手(の話)を受け入れてくださるようにも見受けられますし、専業主婦で「おうちのルール」だけでやってきた方は、多様な意見を受け入れにくい、という具合です。
 私自身、25歳を過ぎ、結婚後、いくつかの仕事を経験し、新しい人たちとの驚きの出会い(相手の常識にびっくり!)を経て、今は驚きもなく、「人それぞれね!」とOKを出せています。これは理屈以上にトレーニング(体験)ですね。
 同じ場と時間を共有していても、もの見方、感じ方はぜんぜん違ってしまうようです。スポーツの試合で勝った人と負けた人、あるいは観戦していた人の違いのようなものでしょうか。
 私が今、まるくなって鈍くなっているかな、と感じるのは、相手の思いに沿うことに必死になっているからなのかもしれません。
 週末に流した涙は、いろんな立場の違いに戸惑いながらも、自分であり続ける、という困難な関係性にうまく対処できなかったからだな、と思っています。私の言葉は、いろんな気持ちから、遠慮がちな物言いで、相手に伝わりませんでした。
 私は勝者になりたいのに、敗者となり、観戦者の立場のような物言いをしてしまったようです。 次回は私自身を失わず、相手をできるだけ傷つけず、という高度なテクニックを身につけてみようじゃないですか!
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by artemis-journal | 2006-02-16 13:01